

浄土真宗本願寺派
仏原山 西楽寺
SAIRAKUJI
浄土真宗本願寺派
仏原山 西楽寺
083-782-0003

西楽寺について
開基浄西は、大内義隆の家臣であったと伝えられている。義隆が、家臣陶晴賢の謀叛にあい、天文12年(1551年)深川の大寧寺で自刃して果てた後、無情を感じて出家を願う。諸々を放浪し滝部の地に来り、刀禰役中山善兵衛宅に逗留する。見込まれてその娘と結婚、爾来中山姓を名告る。四男一女に恵まれる。男子ことごとく出家、長男浄忍は光輪寺、次男助西は西楽寺、三男浄友は法船寺、四男浄願は安養寺の祖となる。
二代助西は、寺地から恒安の梨木台(現滝部小学校所在地)に移住した。次いで、仏法弘通のためには毛利館周辺が格好の場所と、慶長6年(1601年)「父子力を合わせ、館下北方に寺を移す。助西78才、順西34才」と記録されている。
毛利館は、滝部三千石を領する元鎮の館であった。毛利秀包(元就の9男)の嫡男である。慶長6年(1601年)、輝元の命により、父の遺骸を現在地西楽寺瑞雲台に葬る。側に吉敷毛利家老、白井兵庫入道平景俊の墓がある。秀包死してより11年、幼君を補佐して後、殉死せしと古老伝える。
寛永19年(1642年)四世浄誓の時、山号仏原山、寺号西楽寺が下賜される。
元禄12年(1699年)6代浄翁のとき、本堂再建。
7代浄栄55のとき、秀包の墓所に寺を移す議おこる。まず庫裡をと、延享2年(1745年)建築、延享5年(1748年)本堂移築。この時、徳浄寺で学問中の浄顕(8代)呼びもどされる。
現在の本堂裏の回遊式庭園はこの時に造られる。
明治4年(1871年)排仏毀釈の嵐吹きあれる中を本堂を再建。現在の本堂がそれである。
昭和41年(1966年)12代浄映の養女中山久、遺言により庫裡一建立。47年(1972年)山門修復。
平成3年(1991年)本堂屋根修復・山門とともに甍本葺となる。
平成13年(2001年)庫裡新築。
施設紹介
